最近思うことをつらつらと。

色んな事柄について、友人や他人と語ることは多々あると思う。
そんな時に思うのが、何故こうも人は『結論付けようとするのだろうか?』と言うこと。
なんと言うか、意見の交換ではなく、主張の張り合いっぽい感じと言えばわかるかな?
で、『高見さんはそう言う人なんですね』って言われたり…これが実は結構嫌だったりする。
断っておくけど、これは特定の誰かを指して話しているわけではありませんので、あしからず。
と言うか、まぁ殆どの人がそんな感じだと言う話。
もちろん、おれ自身もそう言う面が多々あるのですがね(笑)

つまるところ、そう言う思考方法は、単純化、抽象化されて記憶に格納出来るからなんだろうなぁとも思う。
データベースのキー情報みたいなもので、既に持っている情報とリンク、連結させて格納しておいた方が楽だし、分かり易いしってことなのかなとね。
ただ、弊害として、その人のベース構造による範囲の中で処理出来るようにするため、誤解、曲解などが生じることが多々ある。
これは自分もそうで、その人の言っている意味を自分の該当情報で処理しようとして、結果相手の言い分を自分にとって都合の良い情報に改変してしまっていたりする。
また、それらを利用した『皮肉』と言うものまで存在するから、結構ややこしいことになったりもする。
なんでこんなことを考えたのかと言えば、(一月)前の日記のニュースの記事の件やら、ふと自分の周りを見渡して観た時に、突如そう思えたってだけなんだけども。

所謂聞き上手ってのは、その許容するデータベース情報が多岐に渡って構築されているのかなぁとか思ったり。
おれはあんまり『しゃべり場』とか知らないんだけど、予想するに多分主張のぶつけあいになって、まぁ放送時間内に結論など出るわけでもなく終わると言う『朝まで生テレビ』と同じなんでは無いかなぁとか。
おれ的に理想のパターンと言うのは、お互いの主張から始まったとしても、その主張の中の意見がお互いに認知され、その結果それぞれの主張に変化が生じるその様なんだな。
主張を曲げた方が負けとか、どっちの主張がより強い=正しいとかじゃ無いんだしね。

先に言った『高見さんってそう言う人なんですね』って帰結の仕方が嫌なのは、そう言う帰結のされ方をすると、こちらから何らかの意見を言ったとしても、受け取る側の認識で即遮断されてしまったり、何の発展性も無い応答しか貰えないからなんだな。
かと言って常に主張の塊で、こちらから意見を出すととりあえず噛み付いてくるのは当然ノーサンキューで(笑)
影響を与え合って変化することって、人間らしいことの一つだと思うんですがね。