天才と凡人、考察と実践、そして理論

おれは自分のことを天才だと思っていた時代がある。
それは頭が良いとかそう言う意味ではなくて、やってみたこと、試したことが思った通りの効果を生むことがあったからだ。
そして、その時に説明を求められても、具体的なことは語れなかった。
何せちょっとした思い付きでしかなく、理路整然と構造を語れないのだ。
やがて、理屈っぽくなるにつれて、その思い付きの実行に『考察』と言う中間要素が介入してくるようになった。
『考察』は実に保守的で、前例の無いことや確証の無い事に対して、実行まで至らせないと言う機能が働き、ここで自分は天才ではなく凡人だと痛感する様なった。
過去の栄光は若さゆえの思い込みであり、自分には才能は無い…例えあったとしても、自分程度の才能の持ち主など幾らでも居るのだと『考察』は言う。
これがいわゆる『挫折』と言うものなのかも知れない。

しかし、才能があったから始めたわけではなく、純粋に楽しいから始めたのだし、少なくとも続けられるくらいの才能と言うものはあったのだ。
それに気が付くようになると、今まで散々苦しめてきた『考察』は、実に頼もしい友人として機能してくれるようになる。
例の『思い付き』を、色んな側面からその実践方法を検討してくれるのだ。
自らに無い要素、足りない才能を補う何かを持ってきてくれる。

例えば、おれには絶対音感が無く、相対音感すら優れてるとは言い難い。
しかし、周波数帯域や倍音と言う情報を得て、それを使うことで安定したものを再生することが出来る。
また、最初の頃こそ『考察』は絶対的だったように思えたが、自分の感覚はそれとしてしっかりと持っていると、『考察』側がそれをちゃんと認識し判断していることに気が付く。
特に、ここ最近のギターの音に関しては、実に色んな事に気が付かされたのだが、それもこれも「過去にギターの音と認識したイメージ」と言うものが実に重要な要素となっていた。
弦楽器の弦の振動、木材の共振動、ピックアップによる電気信号への変換、アンプリファーによる電気的な増幅、スピーカー特性にキャビネット材の共振。そして録音機材、状態の特性等、幾らでも噛み砕いて行く事が出来るが、大事なのは、ギターの音とはそれら全体が纏まった時に出てくる『総体としての音』であることだった。
そして、その構造の一端が見えたときに、他のものにも上手く転用出来るよう『考察』は纏めてくれるのだ。

これこそが学習であり、知識なのではないか、と最近特に思うようになった。